阿含経という古い経典には
釈尊の説化の様子が伝えられています
釈尊は35歳で悟ってから80歳で亡くなるまで
四諦を繰り返し説いて旅をつづけました
四諦は仏教の礎となる四つの真理です
それは苦諦、集諦、滅諦、道諦です
坐禅というのは
この四諦の実践に他なりません
苦諦は
考えや思いでこの世が在るのではないという真理です
苦という文字から連想される
苦しいとかつらいという意味ではありません
仏教において一切皆苦というのがひとつの旗印です
一切は自分の思い通りにはならないということです
この苦の字を用いた成句に
四苦八苦があります
四苦は生老病死です
生まれる、年をとる、病気になる、死んでしまう
いずれも自分の思いではどうにもなりません
見える、聞こえる、匂う、味がする、感じる、思う
いずれも苦のようすです
集諦は
悩みが生じる原因についての真理です
思い通りにならないことを思い通りにしようとするから
それが叶わないために悩みが生じるのです
人の悩みは自分の様子を見て
それを自分の思い描く様子にしたいと願うところに始まります
眠れないときは、なんとか眠ろうとがんばる
怒ったときは、なんとか静まろうとする
悲しいときは、気を晴らしたいと思う
不安なときは、払拭したいと願う
しかし思い通りにしようとすればするほど
悩みは助長されていきます
眠れないという事実に逆らう
怒った、悲しいという事実を嫌う
不安という事実に嘘をつく
あるいは今ここに生きている確かな事実は横に置いて
どうして在らねばならないのか意味を考えて悩む
事実に対して後からものを云う「自分」が
苦悩の原因となっているのです
滅諦は
悩みが滅した涅槃の真理です
自分の思い通りにならない事実をそのままにしておくと
思い通りにしようとしている自分が失せます
眠れないという事実のままにしておく
怒った、悲しいという事実のままにしておく
不安という事実のままにしておく
自分の思い通りにしたいという因が滅すれば
果としての悩みが滅するのです
道諦は
八つの正しい修行のありよう(八正道)です
八正道は
正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です
正見は、正しい見解です
四諦をよく理解することです
これが自分だと思っているものは、認識上の働きであり、元々実体が有りません
ジャンケンのぐーちょきぱーは、手の働きであって、実体がないのと同じです
実体のない自己を中心にして、思い通りにしようとすると人は迷う
このことを納得することです
正思は、正しい思いです
思うということも身体の働きの一つです
思いが出てきたという事実を
さらに思いでいじらないのです
正語は、正しい言葉です
間違った言葉をつかわない、嘘をつかないことです
自分の今のありようにも嘘をつかない
悟ってなければ悟ってないまま嘘をつかずに行くのです
正業は、正しい業です
殺し、盗み、邪淫を離れて修行を積むことです
正思されたものを実践していくのです
人に何か悪く云われたことを思いで取り扱っていると
怒りが助長されて、何か仕返ししてやりたくなる
悪業が生じる
云われたままにしておくのです
悔しい事実のままにしておくのです
それに手をつけて何とかしようとしないのです
正命は、正しい生活です
釈尊の教えに適った衣食住をすることです
人の執着を離れた衣即ち袈裟を着け
托鉢で食を得、家を出て定住しない生活です
つまりそれは自分の好き嫌いを云わない生活です
正精進は、正しい努力です
自己を省みず、身命をなげうつ覚悟の修行です
正念は、正しい念のありようです
本当の自分のありように気がつくということです
自分とは観念であることに気がつく
自分を省み、取り扱う自分なぞ始めから無いことを知るのです
正定は、正しい禅定です
自己を無くそうと坐禅しても自己は無くなりません
無くそうとしているのが自分です
かえって自己を起こす因となります
実体のない自己を取り扱えば
取り扱っているようすがどこまでも続くだけです
もともと無いものを無くすことはできません
手の出しようがないのです
手を出す者がいない
それが禅定です
★我が師、雪担方丈から四諦八正道について聞いたことはありません
「学者説教坊主の商売道具だ。おまえはどうなんだと問うてみたらいい」
そう聞かされていました。
後々、仏教書をひもといてみると、
「なんだ方丈の云うことと同じことじゃないか」、と思った次第。
四諦八正道を習い覚えて、なお釈尊からはるか遠く
坐るに当たっては、四諦もへったくれもない
方丈は、ただ黙って坐れと云うばかり
しかし、釈尊の言葉を見てみれば
その教えがそのまま今日までつながっていることが感慨深い
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